瑞応山 大成寺(ずいおうざん だいじょうじ)
宗派 臨済宗建仁寺派
ご本尊 聖観世音菩薩
御詠歌 日引なる ふるさと遠く聞こえこし やさかを偲ぶ今日ぞ尊し
 
創建は観応2年(1351)足利尊氏の二男・基氏の開基とされています。
御詠歌にもあるように高浜町内浦地区の日引にあり瑞泉寺といいましたが、火災により焼失しました。応永元年(1394)小浜領主・大高重成の庇護により、この地に移し再建しその時、領主の徳をたたえ「大成寺」としました。
六代目の梅岩瑞賢侍者が住持のときに諸堂が焼失しましたが、天文十八年(1550)に領主・武田元光が伎西堂を開山に招いて再興しました。
山門は八脚楼門。文政4年(1821)の建立で町の文化財指定を受けています。
現在は若狭三十三観音霊場の第三十一番札所となっています。
 


 
禅などはどこにもない
生きている人間がいるだけ
常に励んで
境涯を創って
肯心自許(こうしんみずからゆるす)を得よ
 
覚悟はいらぬ死ぬときは死ねばよし

南無地獄大菩薩
 
座禅をしました
見性しました
それがどうした
 
生きても死んでも
地べたを這いずり回って
共に苦しむのが
居場所なのか
 
衆生の声を聴けば
隻手の音が聴こえてくる
南無地獄大菩薩

玄沙三種病人(げんしゃ さんしゅびょうにん)
玄沙は人々に説法した「どの老師もみな衆生を済度するという。それなら、もし盲聾唖がきたら、どう済度するのか。これらの人々の済度ができぬとあらば仏法は何の効果も無い」
 
雪竇の頌
盲聾唖は、対応の手だてが全く断たれている。人けのない窓のそばに独坐して葉がおち花が咲く、その時を得たあり方のままにあるのがいちばんだ。
このコメントが十牛図第八番から第九番のところにピタリと取り込まれている。
本来の面目に立ち返ると、その人本来の目と耳と口に働きかけてくる。大自然の応答があります。
 
十牛図第九返本還源の頌
はじめにかえり根本に立ち還ってみると、ずいぶん努力の限りを尽くしてきたものだ。
この境地は、ただ単に盲聾のように何も見ず聞かずにいるのとは同じじゃない。
部屋の中にいると、外の世界が何も入って来ないが、川は広々と流れ、花は紅く咲いている。
ふしぎな自然の働きは有為や無為の次元にははまらない。
昨夜は太陽が西の洛中に没したが、今朝は暁の空に、あいかわらず同じ日輪が輝いているではないか。
 
 

玄沙三種病人

碧巌録 第八十八則

玄沙

玄沙師備(げんしゃ しび)中国の唐末から五代十国時代の禅僧

盲(もう)

眼が見えない人

聾(ろう)

耳が聞こえない人

唖(あ)

言葉が出ない人

済度(さいど)

仏・菩薩(ぼさつ)が、迷い苦しんでいる人間をすくって(=済)、悟りの彼岸(ひがん)にわたす(=度)こと。転じて、苦しみや困難から救うこと。

碧巌録(へきがんろく)

中国の仏教書であり禅宗の語録。雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)(980~1052)と圜悟克勤(えんごこくごん)(1063~1135)の2人の禅僧によって作られた。

雪竇

雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)「景徳伝灯録(けいとくでんとうろく)」などから、古来の禅者の言行録100種を抜き出し「雪竇頌古百則(せっちょうひゃくそくじゅこ)」を作った。「雪竇頌古百則」は本則と頌から成る。

十牛図(じゅうぎゅうず)

悟りにいたる10の段階を10枚の図と詩で表したもので作者は、中国北宋時代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵(かくあん)。

第一図:尋牛(じんぎゅう)第二図:見跡(けんぜき/けんせき)第三図:見牛(けんぎゅう)第四図:得牛(とくぎゅう)第五図:牧牛(ぼくぎゅう)第六図:騎牛帰家(きぎゅうきか)第七図:忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん/ぼうぎゅうそんにん)第八図:人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう/にんぎゅうぐぼう)第九図:返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん)第十図:入鄽垂手(にってんすいしゅ)

禅とは
 
どう生きるか どう死ぬかを自己に問う哲学です
 
その実践が座禅です
 
禅が実践哲学と言われるゆえです
 

如何なるか道
 
平常心是道
 

道に横径なきは 立つ者皆危うし
(横道のない大道を選んで行く者は危険である)
 
迷う恐れのない大道を行くことがなぜ危ういのか
 
その人は死ぬことになるからである


生死事大 無常迅速
 
生を明らめ死を明らむるは佛家一大事の因縁なり(修證義)
 
生きることを考えたことありますか
 
死を考えたことありますか
 
 
やがて死ぬ けしきはみえず せみの声(芭蕉)
 
真夏の蝉の生の中に、死があるから、生が充実した生となる
 
 
面壁のうしろは、いつかの花の春(東嶺和尚)
 
ダルマ大師は9年間座禅して死にきった
 
その死にきったとこに春の花が咲く
 
 
生死は一体であり生の中に死があり、死の中に生があります
 
花が散るのが無情ではなく
 
花が咲くのが無情です

春は花、夏ほととぎす
 
秋は月、冬雪さえてすずしかりけり
 
            道元禅師

 
 
 
人は自然から来て自然に帰る
 
老いるとは自然に近づくこと
 
昔中国の哲人は絶対的なものを変化と考え「命」と名づけた
 
四季の変化、死は変化
 
発生生物学では「説明する必要のない当たり前の真ん中のことで、すべての命は過去に一度も途切れたことがない」といいます
 
お釈迦さまは「この世にある あらゆる物はすべて一定の状態で存続しているものはない、すべて皆変化していく」と 諸行無常

 
 
想いを小さく
 
自分を小さく
 
自然と共に

 
 
山門は八脚楼門で、若狭湾を見る事が出来ます。
山門をくぐり境内に入ると方丈庭園があります。
境内には高浜町指定天然記念物の紅梅・マキがあります。
鐘楼の奥にはお墓があります。春には周囲にサクラが植えてありご先祖様も楽しまれています。